「感動を与える」だって?
下は友人のブログに書かれていた記事です。
よくアスリートのインタビューで
「感動を与えられるように頑張る…」
というコメントを聞きます
私はこの「感動を与える」という言葉遣いに違和感があります
「感動を与える」とは押しつけがましいような気がします
「感動」は基本的には自分で感じるもので
「与える」ものではないと思うのです
アスリートが頑張っている姿を見た人が
その活躍や素振りに「感動する」のです
最近では高校野球の選手も同じフレーズを使います
何だか「おこがましい」ような気がします
感動するか否かはそれを感じる側の気持ちです
こんなことが気になるのは
私の考えすぎでしょうか?
《親友のブログより》
そういう視点で考えるの面白いです。
言われてみれば、そうかなーとも思いますが、色々な捉え方があるので、これが正解とも言えません。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか!」という方はパスしてください。
「与える」とは、
1 自分の所有物を他の人に渡して、その人の物とする。現在ではやや改まった言い方で、恩恵的な意味で目下の者に授ける場合に多く用いる。
2 相手のためになるものを提供する。「援助を—・える」「注意を—・える」
3 ある人の判断で人に何かをさせる。
要するに、「上の者から下の者へ授ける場合」に使う言葉のようです。
つまり、オリンピック選手が、上から目線で、見ている人たちに「感動」を与えるということ。
オリンピック選手は我々とは住む世界が違いますから、そう考えるのも無理はありません。
でも、別な言い方で「見ている皆さんと感動を共有したい」とか、「記憶に残るような演技にしたい」なら、すんなり入って行けそうです。
或いは、「感動していただけるような・・・」と少しへりくだった言い方なら気持ちが伝わりますね。
言葉の使い方を知らないというわけではなさそうですが、上記のように「押しつけがましいような・・」と感じる方も少なからずいるのです。
だいぶ昔、「自分を褒めてあげたい」なんていう言葉もありました。
これを「自画自賛」と言いますが、下手すると「自惚れ」と呼ばれてしまうこともあります。
でも、そんな気持ちになれるということは幸せです。